美しい出流原弁天池

オミクロン株がピークアウトしてきたらステルスオミクロン、さらにX Eが出てきて、もういい加減にしてくれと思っているところにロシアのウクライナ侵攻。上がるガソリン代、暗いニュースばかり続きますが、私は今日も散策に出かけます。

今回は栃木県の南西部にある佐野市。まず、最初に行ってみたのは出流原弁天池。ここは日本名水百選にも選ばれているだけあって非常に透明度が高い美しい池が見られます。

敷地内には涌釜神社(わっかまじんじゃ)と磯山弁財天があります。手水場にはお花が浮かべてあり、ちょっと癒されます。

しかし、その奥には衝撃的なものが。なんと大蛇がいるではありませんか!

これは夜に一人で来たら腰を抜かすヤツだ。さらにその先に進むと立派な山門があります。

山門をくぐったところにも蛇が…。インディ・ジョーンズの主人公ジョーンズ博士ならこの先が不安になって引き返していることでしょう。とにかく至るところに蛇がいるのです。調べてみると、「宇賀神」という顔が人間で、体が蛇という姿の神様と弁財天は同じとされて宇賀弁財天とよばれているらしいです。ということで敷地の至るところに蛇がいるわけです。さらに登って行くと崖っぷちに美しい朱色のお堂があります。

まるで清水寺のような感じで、櫓(やぐら)の上に御堂があるような感じです。飛び降りる覚悟は清水寺にも引けを取らないでしょう。お堂からの見える景色はなかなかのもので、階段を登った甲斐がありました!遠くに白い大きな建物を発見しました。「とうふ」「ゆば」と大きく書かれています。

早速、降りて向かいます。そこにあったのは、ヨシコシ食品さんの工場でした。敷地内に「丁庵」という直売所があるんですが、豆腐やゆばはもちろん、いろいろな大豆製品があります。

気になったのは豆腐のソフトクリーム。

食べてみると大豆の風味というか豆の香りが口の中に広がります。他にも厚揚げやがんもなどもあってお土産に買って帰りましたが、とても美味しかったです。

藤原秀郷が築城した唐沢山城址へ

次に向かったのは唐沢山城址(からさわやまじょうし)。この唐沢山城は、平将門(たいらのまさかど)を討ち取ったことで、有名な藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が築いて、のちに佐野氏の居城となります。

栃木県にいろいろとゆかりのある藤原秀郷なのでたっぷりと語りたいのですが、これはまた別の機会にしましょう。唐沢山城は、戦国時代には越後(新潟)の上杉家と相模(神奈川)の北条家の境目に位置する北関東にあったので両陣営の勢力争いの最前線でした。最初は、上杉家と仲良くしていて北条勢に狭められた時も上杉家の援軍に助けられます。しかし、いろいろなことがあって、不仲になってしまいます。

上杉謙信も手こずった佐野氏の結束

佐野氏に激怒した上杉謙信。何度も繰り返し唐沢山城を攻めますが、もともと堅牢な山城に佐野家一族、結城家、小山家、皆川家などが一致団結して謙信を向かい討ちます。その結果、謙信は唐沢山城から佐野氏を追い出すことはできませんでした(本当は何度も降伏させたんですが、長くなるので省略します)。

信長の野望とかをやっている人はわかると思うのですが、謙信の戦闘力を持ってしても手こずらせるというのは相当なものです。名城100選のなかで、栃木県で唯一選ばれているのは伊達じゃないのです。その後、佐野家は北条家と手を結び、豊臣秀吉の北条攻めの際は豊臣方に、そして関ヶ原の戦いでは徳川方にと時代を生き抜いていきます。しかし、関ヶ原の戦いの2年後に唐沢山城は廃城となります。

廃城の理由は?

廃城の理由は諸説あるんですが、私が一番面白いと思う話を紹介します。あるとき、江戸で大火がありました。

唐沢山城からも江戸が赤く染まっているのを見た城主の佐野信吉は家康に何かあっては大変と佐野から早馬を走らせて江戸へ向かいます。やっとの思いで家康の前に現れた信吉。

「内府様、唐沢山城より江戸の方を見ると大家が見えましたので、心配になって駆けつけましてございまする」

さて、普通の人であれば、「なんと、佐野の地からワシを心配して駆けつけるとはあっぱれなやつ、褒美を使わす」となるはずです。なのに、「江戸を見下ろす場所に城を構えるとは何たることか! 山城禁止!」と激怒して江戸の周辺の山城は禁止とすることになります。これによって関東一の山城と言われた唐沢山城は呆気なくその歴史に幕を閉じるのです。余談ですが、この家康の対応とは逆の展開になる落語の「富久(とみきゅう)」というお話があります。太鼓持ちの久蔵が、主人の家の近くで火事があったのを心配して駆けつけます。

「旦那、ご無沙汰しています。久蔵です。こちらで火の手が上がっていると聞き、いても立ってもいられず駆けつけました次第でございます」

すると、それを聞いた旦那は以前、酒で失敗して今でいう出禁扱いの久蔵に、「おお、久蔵!覚えているよ。心配をして来てくれたのかい?ありがたいことだ。さあさあ、上がっておくれ。もう昔のしくじりは水に流そうじゃないか。出入りを許すよ」となります。まあ、現在の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の源頼朝もそうですが、聖人君子、勇猛果敢、義を重んじるような人が勝ち残るわけではないのはわかりますね。唐沢山城の廃城のエピソードは家康らしいなぁと思ってしまいます。

もう一つの見どころは猫!

さて、いろいろと見どころが多い唐沢山城ですが、もう一つの見どころがあります。それは、猫がたくさんいるんです。もう、そこらじゅうに猫がいます。そして、人に慣れているというかとてもマイペースで癒されます。

そこでふと気がつきました。すべての猫の耳に切れ込みがあるのです。これは「さくらねこ」と言って避妊手術を受けた印なんだそうです。いろいろな意見があると思いますが、年間に殺処分される猫は2万7000頭もいるそうです。私は、その数が少しでも減らせるなら、こういう活動は意味があると思います。

歴史の舞台「新町薬師堂」

さて、次に訪れたのは新町薬師堂です。この小さなお堂には歴史好きにはたまらないエピソードがあります。「関ケ原の合戦」の際、真田父子3人(昌幸、信幸、幸村)が、徳川家康(東軍)につくか、石田三成(西軍)につくかを話し合った、いわゆる「犬伏(いぬぶし)の別れ」の舞台がこの薬師堂といわれます。

関ヶ原の戦いの少し前にさかのぼります。豊臣家の五大老の1人である家康は、あの有名な直江状(上杉景勝の家老、直江兼続が徳川家康の命を受けて上杉家との交渉をしていた西笑承兌に送った書簡)が挑発的な内容であったため、激怒。会津の上杉景勝(謙信の息子)に「謀反の疑いあり」と、いいがかりというか、勝手ないちゃもんをつけて討伐のために北へ移動。現代のどこかの国のような身勝手極まりない理由で進軍するという暴挙。そこには正義もへったくれもございません。

しかし、本当に謀反を起こそうとしている家康を以前から警戒していたのは五奉行の一人である石田三成。北へ向けて移動中の家康たちは、現在の小山市に差しかかったところで石田三成が家康討伐のために挙兵した知らせを聞きます。家康は上杉征伐を息子の秀忠にまかせて引き返します。そして、石田三成の西軍と家康の東軍がぶつかったのがあの有名な関ヶ原の戦いなのです。

一方、その頃、真田昌幸(さなだまさゆき)とその息子信之(のぶゆき)、弟の幸村(ゆきむら)の3人は豊臣家の五大老の1人である家康の命令で会津討伐に向かう途中に石田三成からの密書が届きます。内容は「豊臣に仇なす家康を一緒に撃とうぜ!」といった内容でした。兄の信之の正室は、家康の筆頭家臣である本田忠勝の娘。弟の幸村の妻は、石田三成の親友、大谷吉継の娘ということで大変に難しい決断を迫られることになった真田家。

この薬師堂で真田家は西軍に着くか東軍に着くかの会議を行います。その会議は人払いをして親子3人のみで行われたそうです。長引く会議に家臣の1人が気になって覗いてみたら「入っちゃダメって言っただろうが!」と怒られた上に下駄を投げつけられて前歯を折ったなんて話もあります。その後、兄は徳川方に、父と弟は豊臣側について戦います。

結果として、兄の信之は徳川幕府の一大名として真田の存続に成功します。弟の幸村は大阪夏の陣であの大河のタイトルにもなった真田丸を築いて大活躍。家康を追い詰めましたが、今一歩のところで失敗してしまいます。

余談ですが、信之の居城、群馬県の沼田城は素晴らしい城址なので一度は見てみたほうがいいと思います。戦国時代の有名人もいろいろと絡んでくる佐野の散策はいかがでしょうか? 美味しいものもたくさんあるのでまた散策してみたい魅力たっぷりの場所です。


■ 千本 義信

1975年、栃木県大田原市で生まれる。中学生の時に親にカメラを買ってもらい、うまく撮れないことが悔しくて写真を撮り続ける。次第にカメラと写真の魅力に取り憑かれる。高校生になって憧れの写真部に入る。大会などにも参加して部長の地位を獲得。この頃には運動も勉強もできない私が進む道はカメラマンしかないと思い込む。高校を卒業し上京、東京ビジュアルアーツ写真学科へ。2年後、ギリギリの成績で卒業。その後、栃木県に帰り、印刷会社や写真スタジオのカメラマンを経て、2012年にフリーランスに。雑誌、企業広告、建築物、料理、商品撮影など、たくさんの人に支えていただき、今日もどこかで撮影中。