令和4年現在の殺生石。真っ二つに割れている

殺生石が真っ二つに割れた!

今年の3月5日、那須町の国指定名勝史跡「殺生石」が真っ二つに割れたという出来事がニュースやSNSで話題となった。九尾の狐(尾が9つに分かれ、変貌自在で人をだます狐の妖怪)にまつわる伝説が憶測を呼び、吉凶さまざまな意見が飛び交っている。

殺生石は、那須町湯本の温泉街の北にある安山岩の巨石である。付近からは有毒ガスが吹き出し、岩に近づく虫や鳥の命を奪ったことからこの名が付いたといわれる。江戸時代に諸国を巡った松尾芭蕉は、『おくのほそ道』(元禄2年)に「殺生石は温泉(いでゆ)の出づゆ山陰(やまかげ)にあり、石の毒気(どくけ)いまだ滅(ほろ)びず。蜂蝶のたぐひ真砂(まさご)の色の見えぬほど重なり死す」と書いている。

殺生石。この頃はまだ割れていない(平成初期に筆者撮影)。
松尾芭蕉の碑。芭蕉は元禄2年4月19日に殺生石を訪ね「石の香や 夏草赤く 露あつし」という句を詠んだ。

『殺生石』の伝説

この殺生石の名を世に広く知らしめたのは、謡曲『殺生石』であろう。あらすじは以下のとおりである。

玄翁(げんのう)という高僧が、那須野が原を通りかかった時、石の周囲を飛ぶ鳥が落ちるのを見て不審に思っていると、女が現れ、殺生石の由来を語り始める。昔、帝の寵愛を受けていた玉藻の前(たまものまえ)は、陰陽師である安倍康成(あべのやすなり)に狐の化身であることを見破られ那須に逃れた。

しかし、三浦介と上総介に討たれてしまう。その魂が石に取り憑いて殺生石となり、毒気を吐いて道行く者を殺した。これを哀れんだ玄翁が石の霊を鎮めると、石が割れて狐の精霊が姿を現し、これ以降は悪事をしないことを約束してどこかに消え去った。

玉藻前草紙絵巻貼合屏風(右隻裏と左隻裏)。江戸時代前期(栃木県立博物館蔵)。

狐に化けた「玉藻の前」の怨念?

この謡曲は、「玉藻の前」(九尾の狐に化身とする美女)の伝説をモチーフとして作られたものである。少なくとも南北朝期には成立し、その後に作られた『玉藻前草紙』に登場する帝は鳥羽院(1103~1156)とされる。時は保元の乱(1156)の混乱期、帝をたぶらかす狐が現れ、那須の地で討たれてしまう。

追討にあたったのは源氏の有力武将で、三浦介とは三浦義明(みうらよしあき)、上総介は上総広常(かずさひろつね)である。なお、NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では佐藤浩市が上総広常を演じている(三浦義明は山本耕史演じる三浦義村の祖父にあたる)。この物語には続きがあり、玉藻の前の体内から出た白い針が源頼朝(兵衛佐・ひょうえのすけ)の手に渡り、これが鎌倉幕府を開くきっかけとなったという。

殺生石のさらなる伝説が生まれた

殺生石のある那須は、平安時代に編纂された『延喜式』にも記された地で、建久4年(1193)には源頼朝が巻き狩り(狩場を四方から取り巻き、獣を追い詰めて捕らえること)を行っている。頼朝や鎌倉武士団にとっても無縁な土地でははい。鳥羽院、玉藻の前、三浦介、上総介、玄翁(源翁とも)といった登場人物、地名、狐などを繋いでいくと、この物語には何かしらの暗号が隠されているように思える。

「玉藻前草紙絵巻貼合屏風」の部分。この屏風に描かれている狐は9尾ではなく2尾である。

玉藻の前に憑依した狐は中国やインドの王にも取り憑いて国を滅ぼしたという。玄翁が砕いた石は那須の地のみならず各地に散らばり、さらには、玄能(かなづちのこと)の由来になった。『玉藻前草紙』や謡曲『殺生石』からは、さまざまな伝説が派生し、今日に伝えられている。そして、今回の出来事。それについての見解は各人に委ねるが、800年もの長きにわたり人々の心に留められていたことからも、相当なパワーを秘めた石であることは疑いの余地はない。

この屏風は栃木県立博物館企画展「異界~あなたとふいにつながるせかい~」で展示中(令和4年4月23日~6月15日)。

篠﨑 茂雄

1965年、栃木県宇都宮市生まれ。宇都宮大学大学院教育学研究科社会科教育専修修了。栃木県立足利商業高等学校、同喜連川高等学校の教諭を経て、1999年より栃木県立博物館勤務。民俗研究、とくに生活文化や祭り、芸能等を専門とし、企画展を担当。著書に『栃木民俗探訪』(下野新聞社)などがある。