History of Tochigi 4

中核都市『宇都宮』の誕生』

徳川家康公の側近だった「本多上野介」が宇都宮領地を没収されたときに、原因としてささやかれた「つり天井のうわさ」とは…。

将軍家が、家康公が祀られている日光に参詣するたびに、道中にある宇都宮城の中に将軍家の客殿を造っていました。その客殿に秀忠暗殺のために、落下式のからくり天井を造っていたとうわさされたのです。これも秀忠が上野介を嫌っていたことが根本的な原因としてあるのかもしれませんが。

宇都宮城

上野介のあと、宇都宮藩主となった松平家の時代は、度重なる自然災害と家康公の150回忌の法要を、時の将軍家春公より代理として実施するよう命じられたことによる財政の圧迫で大変な資金難の時代でした。苦渋の選択で実施した年貢の引き上げで農民の一揆が起こります。今の八幡山に集まった農民は2000人とも3000人ともいわれました。
農民の指導者は竹林の刑場で斬首になり、松平家は肥前島原に国替えになり、どちらにとっても悲しい結果となりました。
その後は、名君戸田忠寛により藩政は安定しますが、日本の歴史は大きなうねりの中にありました。幕末の混乱です。江戸城坂下門外の変で老中安藤信正に切り込んだのが宇都宮藩出身の大橋訥庵でした。このことがまた宇都宮藩を困らせる原因になり、宇都宮藩は幕府のご機嫌伺いで天皇陵の修復を申し出、受理されます。3年の年月をかけて130以上の御陵の修復を完成させました。
修復を完了した翌年、15代将軍慶喜は朝廷に政権を返します。『大政奉還』、明治維新の始まりです。
徳川家が一大名としてのこることを朝廷が認めなかった為に両者の争いが始まり『戊辰戦争』に突入…。そして幕府側、朝廷側どちらに味方するか議論の末、新勢力に逆らうのは得策ではないと判断した宇都宮藩は幕府側との戦いの終盤、自ら宇都宮城に火をつけます。1868年4月19日の夕方でした。宇都宮城のみならず、宇都宮の城下まで焼けてしまい死傷者300人以上の惨状となってしまいました。その後廃藩置県により整備された宇都宮は、1883年栃木県の県庁所在地となりました。行政機関や銀行、学校、病院などが建設され近代化されると同時に、日本は世界に目を向けて軍備を拡張していきます。

桜

現在の日光街道と大通りの交差点が「桜通り十文字」と名づけられているのは、軍備拡張で誕生し、宇都宮を所在地とした部隊と市民が強力して栃木街道から日光街道にむけて5000本の桜を植樹し、桜の名所だったという所以があります。すまいポート21の店舗のあたりも桜並木のなかです。それが害虫にやられたり道路の拡充で一本のこらず切り倒されてしまったのです。
今も残っていたら、それは素晴らしい風景だったでしょう。なんとも…残念です。(新川の桜並木は大事にしましょう!!)

それからの宇都宮は工場の誘致や高速道路、新幹線の開通により、首都圏により近い存在になり「中核市」の指定をうけました。
自然と調和した美しい県をめざして、宇都宮はますます発展していくことと思います。