軒先

History of Tochigi 3

教科書には載っていない下野国の歴史を一緒に辿ってみましょう!

徳川泰平時代へのうねりの中で変革した『宇都宮』

1597年・・・真相が分からないまま名門宇都宮家は、豊臣家により領地を没収され滅亡。

日本史の教科書では、この頃秀吉が亡くなり、徳川家康の立場が強くなっていきます。徳川時代の直前、家康と石田光成・上杉景勝の対立がこの下野国にも大きな影響を及ぼしていきました。
※昨年のNHK大河ドラマ『天地人』でこのあたりの状況は皆さんよくご存知ですね。

石田方の上杉が会津城を固めていたため、家康は下野国小山に陣をしき、兵力を増強して上杉に備えます。1600年、7月宇都宮城では時の藩主『蒲生秀行』と『徳川秀忠』の談合が行われたと記録されています。上杉との合戦に備えて、宇都宮藩内の意思統一が目的だったようです。しかし、名門宇都宮家亡き後、藩主となった蒲生氏では、宇都宮家旧臣や民衆の気持ちをしっかり把握することは出来ていませんでした。

対策として、町年寄衆から人質を差し出すよう命令します。この頃の町年寄は現在の市会議員・県会議員より力は巨大でした。有事の際に反抗できないようにとったこの手法に対して、各地で反発が生まれました。

1600年、誰でも知ってる『関が原の戦い』は一日で終わったのにもかかわらず、下野国の世情不安は長引いていきました。豊臣・徳川の強引な手法が下野国にも深い傷を残したのです。しかし、その後家康公より優遇措置が取られます。

宇都宮の町が、幕府や藩の役人の仕事上の移動のサポートをする『伝馬役』を勤める代わりに地子(宅地にかかる税金)を無税とするというものでした。これにより、宇都宮の町は整備され、町年寄たちはお礼として幕府にろうそく2000本を贈ります。

蝋燭

(現在にたとえるとLED電球を2000個贈ったということでしょうか。)これが習慣となり、将軍が変わるたびにろうそくを献上するようになったようです。
これだけでなく、関が原の合戦の大勝を祝い、『二荒山神社』の復興のために神領を寄進しています。宇都宮のシンボルの復興です!!
この後徳川の泰平の世の中で、宇都宮も何代かの名君により、整備されていきました。

まず、蒲生秀行は、現在の宿郷町に紺屋(染物屋)を集め紺屋町を開きます。同時に自分の出身地である、滋賀県の日野町から招いた商人のために日野町を開き産業の活性化に努めました。

次の藩主、奥平家昌は信心深い人間だったようで、見事な手腕でたくさんの寺社をよみがえらせました。さらに、次の藩主本多正純は、宇都宮の城下町作りに尽力します。
奥平家昌の時代までは奥州街道が不動前で日光街道と分かれていました。正純は奥州街道を材木町方面まで迂回させて、伝馬町で日光街道と分かれる様に工事をしました。
現在の宇都宮市街地の主要道路の流れはこのとき整備されたルートですね。この道路変更により、城の北西部にバイパスが通り、通り沿いは問屋や商店で賑わいをみせ、宇都宮の商工業の発展に大きな意義をもたらしました。(元祖宇都宮テクノポリス計画ですね。)

こうして、産業・文化両面から活気ある町として復興させた名君本田正純でしたが、1622年、奉公おろそかという理由で秋田県に国替えを申し渡されます。このとき正純氏は、いわれの無いことと、国替えを受け入れずお家取り潰しの道を選択します。
これには、家康からの信頼の厚かった正純氏を秀忠公は嫌っていたから・・・とのうわさもありますが、真相はまたしても闇の中です。
次回では、秀忠公暗殺を計画していたのでは?と言われている『つり天井』のうわさについても触れていきたい、と思います。